とはどんな人?震災の復興需要を掴み枕木業で日本一に急成長させた経営
| 読み | いわさきよはちろう |
|---|---|
| 生年月日 | 1902年5月1日 |
| 職業 | 経営者 |
岩崎 與八郎(いわさき よはちろう、1902年(明治35年)5月1日 - 1993年(平成5年)12月28日)は、鹿児島県の実業家で、岩崎産業グループの創業者である。岩崎与八郎と表記されている場合もある。
1922年(大正11年)5月、地元・岩川で鉄道省(国鉄)志布志線の建設工事が始まり、実家の旅館に宿泊した工事関係者から枕木納入業者となる話を聞きつけた岩崎は、枕木の納入業者となるべく岩崎商店を創業した。借金をして上京し鉄道省と交渉したが、若すぎて実績がないことを理由に納入業者の指定を受けることはできなかった。
1923年(大正12年)9月に関東大震災が発生すると、鉄道網も大きな被害を受けて復旧資材が大量に必要となった。岩崎は鉄道省から呼び出される形で急に納入業者の指定を受け、その後短期間で日本一の枕木納入業者へと成長した。
代議士の岩川与助に依頼して郵便逓送事業の許可も受け、鹿児島市に転居して事業を広げた。取引先が鉄道省・逓信省という2つの役所であったため、世界恐慌で打撃を受ける業者が多い中でも岩崎商店は大きな影響を受けなかった。
経営の型:官庁を主要な取引先に据えて景気変動の影響を抑え、危機をむしろ事業拡大の契機とする。
第二次世界大戦に際して、岩崎は日本の影響下にあった朝鮮総督府鉄道・南満州鉄道・華北交通・華中鉄道へも枕木の販路を拡大した。三井物産を通じて大陸へ枕木を販売し、1本1円で購入した枕木を40〜50銭程度で輸送して12円で販売するという商売で、5万本を積んだ船1隻で50万円の利益を得た。
本人もこんなに儲けてよいのかと不安になったという。戦時中の国策で成り上がったと指弾する者もいたが、岩崎はそれを特に気にせず、本当のことだから隠しはしないという態度であった。
第二次世界大戦が終結すると岩崎は戦争協力者として連行され取調べを受けたが、三菱グループ創業家との関係を疑われた際には無関係であると釈明した。その後、物資不足の中で進駐軍との関係を構築し、朝鮮戦争が発生すると人脈を生かして枕木の大量発注を受け、統治下にあった奄美大島から出荷できる立場を生かして大きな利益を上げた。
経営の型:利益の是非を問われても事実を隠さず、機を捉えて実利を取りに行く。
1952年(昭和27年)5月、経営が傾き始めていた南薩鉄道の取締役に請われて就任し、同年12月に社長となった。運行費用の安い気動車を導入して蒸気機関車を淘汰し、1954年(昭和29年)からは国鉄線に乗り入れて西鹿児島駅へ直通させた。1953年(昭和28年)には大隅半島にバス網を持つ三州自動車の社長にも就任し、両社は1964年(昭和39年)に合併して鹿児島交通となった。
観光事業では、当時湯治場に過ぎなかった指宿温泉に大規模ホテル「指宿観光ホテル」を建設して1956年(昭和31年)に開業し、1959年(昭和34年)には名物「ジャングル浴場」を開設して全国から客を集めた。屋久島の開発のためには1,000トンクラスのフェリー「屋久島丸」を建造して1961年(昭和36年)に就航させ、1963年(昭和38年)には佐多岬ロードパークを建設した。
県外でも1960年(昭和35年)に箱根、1969年(昭和44年)には伊豆に石廊崎ジャングルパークを開設し、1972年(昭和47年)には豪州岩崎商事を設立してオーストラリアのヤップーンにキャプリコーン・イワサキ・リゾートの建設に着手した。環境保護団体や在郷軍人会の反発を受け1980年(昭和55年)には施設で爆破事件も起きたが、1984年(昭和59年)9月に開業にこぎつけた。
経営の型:本業で培った信用と人脈を足がかりに、鉄道から観光・海外リゾートへ事業の幅を広げる。
| 1902年5月1日 | 生まれる(鹿児島県囎唹郡岩川村) |
|---|---|
| 1917年3月 | 岩川尋常高等小学校高等科を卒業し、14歳で社会に出る |
| 1922年5月 | 岩崎商店を創業(鉄道省志布志線の枕木納入業者を目指す) |
| 1923年9月 | 関東大震災を機に鉄道省から枕木納入業者の指定を受ける |
| 1940年4月 | 岩崎商店を岩崎産業株式会社に改組 |
| 1949年 | 参議院議員選挙への出馬要請を辞退し経営に専念 |
| 1952年5月 | 南薩鉄道取締役に就任(同年12月に社長就任) |
| 1953年2月26日 | 三州自動車社長に就任 |
| 1956年 | 指宿観光ホテルを開業 |
| 1961年12月26日 | フェリー「屋久島丸」を就航 |
| 1964年9月1日 | 南薩鉄道と三州自動車が合併し鹿児島交通となる |
| 1968年3月6日 | 鹿児島商工会議所会頭に就任 |
| 1972年 | 豪州岩崎商事を設立しオーストラリアへ進出 |
| 1984年9月 | キャプリコーン・イワサキ・リゾートが開業 |
| 1993年12月28日 | 死去(満91歳) |
甲木 — 大木のような存在。まっすぐで正直、成長を求めるリーダー気質。向上心が強く、曲がったことが嫌い。
| 年柱 | 月柱 | 日柱 | |
|---|---|---|---|
| 天干 | 壬 | 乙 | 甲 |
| 地支 | 寅 | 巳 | 申 |
| 通変星 | 偏印 | 劫財 | (日主) |
| 十二運 | 建禄 | 病 | 絶 |
社交的で競争心が旺盛。仲間と共に成長する。
ここから先は四柱推命による解釈です。史実ではなく、命式の読み方の一例として書いています。
岩崎與八郎の日主は甲木(きのえ)。大木のような存在で、まっすぐで正直、成長を求めるリーダー気質を持つとされる。向上心が強く曲がったことを嫌う型で、身強、つまり自分の力で押し進める強さを持つ命式である。
年柱は壬寅、通変星は偏印。独創的な知恵と個性を示し、学問・研究に向くとされる星である。14歳で社会に出て中山商店で簿記学校に通いながら経営を学び、若くして岩崎商店を興した道筋は、この星が示す独自の学びの型に重なる読み方ができる。
月柱は乙巳、通変星は劫財。社交的で競争心が旺盛、仲間と共に成長する星とされる。関東大震災を機に鉄道省から枕木納入業者の指定を受け、短期間で日本一へと駆け上がった展開や、南薩鉄道と三州自動車を経営統合して鹿児島交通を築いた歩みは、競争のただ中で仲間や取引先を巻き込みながら伸びる劫財の型に沿っていると読める。
甲木の身強という強さは、大陸での商売を指弾されても「本当のことだから隠しはしない」と述べた態度や、オーストラリアでのリゾート開発が反発と爆破事件に遭っても開業までこぎつけた粘りとも重ねて読むことができる。もちろん命式を見て経営判断を下したわけではなく、あくまで一つの読み方である。
岩崎 與八郎(いわさき よはちろう、1902年(明治35年)5月1日 - 1993年(平成5年)12月28日)は、鹿児島県の実業家で、岩崎産業グループの創業者である。岩崎与八郎と表記されている場合もある。
生年月日は1902年5月1日です。
日主は甲・木・陽です。甲木 — 大木のような存在。まっすぐで正直、成長を求めるリーダー気質。向上心が強く、曲がったことが嫌い。
誕生日は5月1日です。同じ誕生日の運勢は /birthday/05-01 で確認できます。
1922年(大正11年)に鉄道省志布志線向けの枕木納入業者を目指して岩崎商店を創業しましたが、当初は若さを理由に指定を受けられませんでした。1923年(大正12年)の関東大震災を機に鉄道省から納入業者の指定を受け、1940年(昭和15年)には岩崎産業株式会社に改組し、後のいわさきグループの中核となりました。
1923年(大正12年)の関東大震災で鉄道網が大きな被害を受け、復旧資材として枕木が大量に必要になったことから、鉄道省より急に納入業者の指定を受けました。その後短期間で日本一の枕木納入業者へと成長しました。
指宿温泉に大規模ホテル「指宿観光ホテル」を建設し、1959年(昭和34年)には名物「ジャングル浴場」を開設しました。屋久島へはフェリー「屋久島丸」を就航させたほか、南薩鉄道と三州自動車を経営し、1964年(昭和39年)の合併で鹿児島交通としました。
あなたもこの偉人と同じ命式か診断してみませんか?
無料で命式を診断する →