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吉村秀雄

とはどんな人?独自開発の集合管でプライベーターのまま世界に挑む

生年月日: 1922年10月7日 大正

吉村秀雄の基本情報

読みよしむら ひでお
生年月日1922年10月7日

吉村秀雄とはどんな人?何をした人?

吉村 秀雄(よしむら ひでお、1922年10月7日 - 1995年3月29日)は、オートバイ部品・用品メーカーヨシムラジャパン創業者。オートバイチューニング技術者。

吉村秀雄の経営判断

米兵の整備依頼からバイク屋を開業

吉村は予科練で操縦科を志したが病を得て除隊し、その後航空機関士の道を志して大日本航空で技術者として経験を積んだ。戦後は九州の実家の鉄工所を手伝っていたが、そのもとに米兵たちが再び集まるようになり、航空機整備で培った技術を見込んでオートバイの修理を依頼するようになった。国内の炭鉱が相次いで閉鎖されていく状況を受け、吉村は1954年、雑餉隈の工場の片隅でオートバイ屋を開業した。

吉村の物怖じしない言動と面倒見のよさは客であるアメリカ人たちの心をつかみ、評判が広まるにつれて訪れる米兵の数も増えていった。本物の父親のように「POP(おやじ)」と呼ばれ慕われるようになった。開業から2年後、1人の米兵に誘われて、吉村はゼロヨンのレースに初めて参加した。

経営の型:身につけた技術と築いた人脈を元手に、小さな場所で事業を始めてから客の需要に応じて広げる。

集合管を独自開発し性能を証明

吉村が集合管を発案したのはS800の開発を行っていた時である。当初は軽量化のため4本のエキゾーストパイプを1本にまとめることを思いつき、実践してみると馬力が上がりトルクの谷間が解消された。直列2気筒のホンダ・CB250/CB350では思うような成果が得られなかったが、試作を重ねたCB750Four用の集合管では最大出力を7psあまり向上させることに成功した。

アメリカに集合管を携えて初めて渡った吉村は、オンタリオ250マイルでこれを発表すると高い注目を浴び、アメリカのみならずイギリスのモーターサイクル誌にも掲載されるほどの影響を与えた。翌1972年のデイトナでは、日本国内では集合管に懐疑的な見方がなされていたのに対し、アメリカでは既に集合管を模倣した製品が出ていたことに吉村は驚いた。1978年のデイトナスーパーバイクからは集合管の装着がレギュレーションで認められ、専用に作られた集合管がGS1000にも装着された。

経営の型:製品化の前に実戦で結果を示し、他社に模倣されるほどの技術標準を作る。

対等出資の失敗から新会社を興す

1972年末、吉村はアメリカでの販売網開拓のため、デール・アレキサンダーとスター・トンプソンとの50対50の共同出資により、ロサンゼルス、シミバレーにヨシムラレーシングを設立した。設立当初は製品が順調に売れ、ホンダ車に関してはシェアの50%あまり、カワサキ・Z1についてはほぼ独占的なシェアを得ていた。しかし次第にデール、スター両名からの送金が滞り、売掛金の滞納は2000万を超えた。

吉村が渡米すると、両名は吉村に断りなく社屋近くに新たな設備を増築しており、支払いを迫っても設備投資を理由に拒否したうえ在庫の所有権まで主張した。解決を巡る裁判は半年続き、裁判費用として20,000ドルを費やしたが、会社の所有権は50対50のままという判決が言い渡された。吉村はアメリカにおけるヨシムラレーシングの再起を断念し、すべての権利を放棄する決断を下した。

1975年6月1日、吉村はロサンゼルス郊外のノースハリウッドに新会社「YOSHIMURA R&D」を設立した。「ヨシムラ」はすでに商標登録されて使えなかったための屋号であった。デール、スター両名は「デール・スター・エンジニアリング」と改名して独自に製品を製造・販売していたが、結局倒産した。

経営の型:対等出資のパートナーシップが行き詰まったら、争いを長期化させず新たに立て直す道を選ぶ。

吉村秀雄の略年譜

1922年10月7日生まれる
1954年雑餉隈の工場の片隅でオートバイ屋を開業
1965年4月東京都西多摩郡福生町へ移転しヨシムラ・コンペティション・モータースに改称
1972年末ロサンゼルス、シミバレーにヨシムラレーシングを共同設立(デール・アレキサンダー、スター・トンプソンと50対50出資)
1975年6月1日ロサンゼルス郊外ノースハリウッドに「YOSHIMURA R&D」を設立
1977年2月18日ノースハリウッドの工場が火災でほぼ全焼(事務所は焼失を免れる)
1978年7月30日第1回鈴鹿8時間耐久ロードレースで優勝
1980年10月神奈川県愛甲郡愛川町へ移転しヨシムラ・パーツ・オブ・ジャパンに改称
1984年経営の中心を日本に戻しヨシムラ・パーツ・オブ・ジャパンをヨシムラ・ジャパンに改称
1984年健康状態の悪化を受け監督を長男・不二雄に譲る
1985年肺を患い摘出手術のため北里大学病院に入院
1995年3月29日死去(満72歳)

吉村秀雄の性格を四柱推命で読む(命式)

日主戊(土・陽) - 身強

戊土 — 山のような存在。どっしりと安定感があり、信頼される。度量が大きく包容力がある。

年柱月柱日柱
天干壬庚戊
地支戌戌申
通変星偏財食神(日主)
十二運墓墓病
月柱通変星食神(楽観・才能)

おおらかで楽天的。食と芸術に縁がある。福の星。

五行バランス

木
0%
火
13%
土
33%
金
33%
水
20%

命式から読む吉村秀雄の経営判断

ここから先は四柱推命による解釈です。史実ではなく、命式の読み方の一例として書いています。

吉村秀雄の日主は戊土(つちのえ)である。日主とは生まれた日の干(十干)を指し、その人の性質の核とされるものである。戊は山にたとえられる干で、どっしりとした安定感があり、周囲から信頼され、度量が大きく包容力があるとされる。命式全体としては身強、すなわち日主の力が強いとされる型である。

年柱には偏財という通変星があり、商才や人脈の広さ、お金の流れの大きさを示すとされる。吉村は航空機関士としての技術を元手に、1954年に工場の片隅でオートバイ屋を開業し、そこに集った米兵たちとの信頼を広い人脈へと変えていった。山のように動じない戊土の性質と、人脈を広げていく偏財の働きが重なって見える型であるという読み方ができる。

月柱には食神があり、おおらかで楽天的、食と芸術に縁がある福の星とされる。吉村はヨシムラレーシングの共同出資者に裏切られ、アメリカでの権利を手放すという大きな挫折を経験したが、争いを長期化させず1975年に新会社YOSHIMURA R&Dを設立する道を選んだ。これも、腰を据えて動じない戊土の型と、楽観的に切り替える食神の型がともに働いた読み方として捉えることができる。ただし、これらはあくまで命式から見た解釈であり、実際の判断を保証するものではない。

吉村秀雄に関するよくある質問

吉村秀雄は何をした人?

吉村 秀雄(よしむら ひでお、1922年10月7日 - 1995年3月29日)は、オートバイ部品・用品メーカーヨシムラジャパン創業者。オートバイチューニング技術者。

吉村秀雄の生年月日・命日は?

生年月日は1922年10月7日です。

吉村秀雄の性格は?(四柱推命)

日主は戊・土・陽です。戊土 — 山のような存在。どっしりと安定感があり、信頼される。度量が大きく包容力がある。

吉村秀雄の誕生日は何月何日?

誕生日は10月7日です。同じ誕生日の運勢は /birthday/10-07 で確認できます。

ヨシムラが開発した集合管とは?

4本のエキゾーストパイプを1本にまとめる排気系で、吉村がS800の開発中に軽量化を目的に試作したのが始まりです。試行錯誤の末、CB750Four用の集合管では最大出力を7psあまり向上させることに成功しました。1978年のデイトナスーパーバイクからは装着がレギュレーションで認められ、ヨシムラのマシンにも採用されました。

吉村秀雄がアメリカに「YOSHIMURA R&D」を設立した理由は?

1972年末に共同出資で設立した「ヨシムラレーシング」が、出資者デール・アレキサンダーとスター・トンプソンによって支払いを拒否され、在庫の所有権まで主張される事態に陥ったためです。裁判でも所有権は50対50のままという判決が出たことから、吉村は同社の再起を断念して権利を放棄し、1975年6月1日、ロサンゼルス郊外ノースハリウッドに新会社「YOSHIMURA R&D」を設立しました。

吉村秀雄が創業した会社は?

1954年、雑餉隈にあった工場の片隅でオートバイ屋を開業したのが始まりです。1965年に東京へ進出してヨシムラ・コンペティション・モータースと改称し、1980年には神奈川県愛甲郡愛川町でヨシムラ・パーツ・オブ・ジャパンに、1984年にはヨシムラ・ジャパンへと改称しました。

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