とはどんな人?政界の挫折を機に実業界へ転じ財政の要職を歴任
| 読み | ゆう きれい |
|---|---|
| 生年月日 | 1870年7月23日 |
熊 希齢(ゆう きれい、1870年7月23日〈同治9年6月25日〉 - 1937年12月25日)は、清末民初の政治家・学者・教育家・実業家。変法派・立憲派の一員。
1902年(光緒28年)、常徳知府の朱其懿の招聘を受け、熊希齢は常徳西路師範学堂副弁として公的活動を再開した。翌年秋、湖南巡撫趙爾巽により常徳西路師範学堂監督に起用され、さらに趙に新政を進言してその実施を助けた。しかし趙の新政は反対派の抵抗にあって頓挫したため、熊希齢は実業界に転じた。1904年(光緒30年)、日本に実業視察に赴いた。帰国後、新任の巡撫端方に実業教育学校の創設を建言して賛同を取得し、各種学校を実際に成立させた。
1906年(光緒32年)から、熊希齢は外国憲法に関する資料収集を開始し、同年に『欧美政治要議』という書物を完成させた。清朝で始まった立憲準備においても8項目の意見を奉呈した。同年9月、盛京将軍に異動していた趙爾巽の招聘を受け、奉天農工商局総弁に任命された。趙が奉天を離れた後は江蘇工商局総弁などの職を歴任し、1909年(宣統元年)には東三省理財政監理官に異動した。東三省では他にも様々な財務・実業の職務を担当し、大きな成果をあげて高い名声を博した。
経営の型:政治の場で頓挫した後も、実務の要職を一つずつ歴任しながら成果を積み上げて信用を築く。
1912年(民国元年)4月、熊希齢は北京政府の唐紹儀内閣で財政総長に任命され、財政整理に取組んだ。しかし外国銀行団との借款交渉の不調やそれ自体への国内批判により、辞任に追い込まれた。
二次革命(第二革命)に際して熊希齢は袁世凱を支持した。二次革命鎮圧後、熊は袁の支持により国務総理兼財政総長に就任した。梁啓超や張謇らの著名政治家を閣僚に起用し、『政府大政方針宣言』を公表して国政改革への意欲を示した。しかし現実には袁世凱の威勢に抵抗することはできず、その命に従って国会解散などを行うことしかできなかった。さらに袁世凱から用済みとされる形で、内閣は1914年(民国3年)2月に崩壊した。
経営の型:強大な権力者の支持を得て要職に就いても、その権力の意向に抵触すれば本来の目的だった財政の立て直しは続けられない。
| 1870年7月23日 | 生まれる(同治9年6月25日) |
|---|---|
| 1891年(光緒17年)秋 | 挙人となる |
| 1894年(光緒20年) | 殿試に参加して進士となり、翰林院庶吉士を授かる |
| 1897年(光緒23年) | 湖南時務学堂を創設し総理となる。梁啓超・譚嗣同らを教員に招聘するが、変法派と反変法派の争いが激化して失脚 |
| 1902年(光緒28年) | 常徳西路師範学堂副弁として公的活動を再開 |
| 1904年(光緒30年) | 日本に実業視察に赴く |
| 1906年(光緒32年) | 『欧美政治要議』を完成させ、奉天農工商局総弁に任命される |
| 1909年(宣統元年) | 東三省理財政監理官に異動 |
| 1912年(民国元年)4月 | 唐紹儀内閣で財政総長に任命され財政整理に取組むが、借款交渉不調と国内批判により辞任 |
| 1914年(民国3年)2月 | 国務総理兼財政総長として臨んだ内閣が崩壊 |
| 1937年12月25日 | 香港で脳溢血により死去(享年68、満67歳) |
庚金 — 刀剣のような存在。正義感が強く、決断力がある。鋭い判断力と行動力の持ち主。
| 年柱 | 月柱 | 日柱 | |
|---|---|---|---|
| 天干 | 庚 | 癸 | 庚 |
| 地支 | 午 | 未 | 申 |
| 通変星 | 比肩 | 傷官 | (日主) |
| 十二運 | 沐浴 | 冠帯 | 建禄 |
鋭い感性と表現力。プライドが高く完璧主義。
ここから先は四柱推命による解釈です。史実ではなく、命式の読み方の一例として書いています。
熊希齢の日主は庚金(かのえ)。刀剣のような性質を持つ干とされ、正義感が強く、決断力に富み、鋭い判断力と行動力を備えるといわれる。四柱推命では生まれた日の干を日主と呼び、本人の核となる気質を示すとされる。熊は身強で、自らの力で押し進める型である。
年柱の通変星は比肩で、自立・独立を示すとされる。自分の力で道を切り開き、独立心が強くマイペースな性質と読まれる。時務学堂を創設して総理となり、政界で挫折した後も実業界へ転じて各地の要職を歴任した歩みは、比肩の自立して道を切り開く型に沿う読み方ができる。もちろん命式を見て進路を決めたわけではなく、命式を先に見た人間ならこの人が自らの手で新しい場を作り続けたことに違和感を持たない、という解釈である。
月柱の通変星は傷官で、感性・表現を示すとされる。鋭い感性と表現力を持ち、プライドが高く完璧主義な性質と読まれる。『欧美政治要議』を著し、8項目の意見を奉呈するなど、自らの考えを文章や提言にまとめて示した仕事の運び方は、傷官の表現の型に近いと読むこともできる。
命式ではこう読める、という一つの見方であり、史実そのものを命式が決めたわけではない。
熊 希齢(ゆう きれい、1870年7月23日〈同治9年6月25日〉 - 1937年12月25日)は、清末民初の政治家・学者・教育家・実業家。変法派・立憲派の一員。
生年月日は1870年7月23日です。
日主は庚・金・陽です。庚金 — 刀剣のような存在。正義感が強く、決断力がある。鋭い判断力と行動力の持ち主。
誕生日は7月23日です。同じ誕生日の運勢は /birthday/07-23 で確認できます。
1897年(光緒23年)に熊希齢が創設した教育機関で、熊自身が総理を務めました。変法派の梁啓超や譚嗣同らを教員として招いています。省内で変法派と反変法派の争いが激化し、熊は失脚することになりました。
1912年(民国元年)4月、北京政府の唐紹儀内閣で財政総長に任命され、財政整理に取組みました。しかし外国銀行団との借款交渉がうまくいかず、国内からも批判を受けたため、辞任に追い込まれました。
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