とはどんな人?過剰電力を化学工業とアルミ国産化へ転じた経営
| 読み | もり のぶてる |
|---|---|
| 生年月日 | 1884年10月21日 |
| 国籍 | 日本 |
森 矗昶(もり のぶてる、1884年〈明治17年〉10月21日 - 1941年〈昭和16年〉3月1日)は、日本の実業家、森コンツェルンの創業者、衆議院議員(3期)。位階は従五位勲四等。
日露戦争の戦費調達でヨードの副産物である食塩が専売制になった上、戦争による需要もおさまったため、政府はヨード業者の統制を目的に合併を推奨した。明治41年(1908年)12月、矗昶と安西直一はこの機に乗じて千葉県内のヨード業者を半ば強引に大同団結させ、総房水産株式会社(資本金5万円)を設立した。社長には父・森為吉、専務には安西直一が就いたが、実務は矗昶が取り仕切り、後に常務となった。
経営は順調に推移し、第一次世界大戦による好況を受けて大正6年(1917年)には資本金150万円まで拡大し、海外へも製品を輸出するまでに成長した。しかし翌年大戦が終結すると反動不況で一転経営危機に陥り、その翌年、東信電気株式会社へ吸収合併された。
経営の型:業界再編の機会を捉えて同業を束ね、規模の危機はさらに大きな相手との合流で乗り切る。
矗昶は東信電気の千曲川発電所建設部長として黒沢睦之助を説得し、大正9年(1920年)から1年のうちに4つの発電所を完成させた。開発の見返りとして小海に塩素酸カリウム工場を設立し、房総のヨード工場から運んだ塩化カリウムを原料に、千曲川発電所の電力で低コストのマッチ生産を実現した。この工場はまもなく閉鎖したが、矗昶が電気化学工業に取り組むきっかけとなった。
その後も高瀬川発電所や阿賀野川鹿瀬発電所の建設にあたり、電源開発を積極的に進めた結果、東信電気の発電量が余るようになった。そこで昭和3年(1928年)、東信電気と東京電燈は共同出資で昭和肥料株式会社(資本金1000万円)を設立し、硫安と石灰窒素の製造を始めた。矗昶は専務取締役となり、安価な石灰窒素を全国購買組合連合会を通じて農村の購買組合に直接卸す契約を結び、大手業者による問屋への圧力に対抗した。
経営の型:発電で生まれた余剰の電力を、次の発電ではなく別の産業の原料として使う。
過剰電力の消化と輸入品の国産化は矗昶の2大命題だった。1トンの生産に2万キロワット時という膨大な電力を要するアルミニウムの国産化は、まさにこの2つを満たす事業である。原料のボーキサイトは日本に産出しないため、昭和6年(1931年)から伊那の味噌土、栃木の鹿沼土、朝鮮のミョウバン石を代替原料として研究した。
昭和8年(1933年)3月、朝鮮半島南端の声山を買収し、横浜と大町に工場を着工した。順調とはいえない道のりだったが、昭和9年(1934年)1月12日、初の国産アルミニウムが生産された。同年1月には昭和鉱業株式会社を設立し、同様に電力を多く要するニッケルの国産化にも乗り出している。
経営の型:電力が余る場所に、電力を大量に使う産業を後から連れてくる。
| 1884年10月21日 | 生まれる |
|---|---|
| 1908年12月 | 総房水産株式会社を設立、営業部長に就任 |
| 大正6年の翌年 | 東信電気株式会社に吸収合併される |
| 1920年 | 千曲川発電所建設部長に就任、1年で4つの発電所を完成 |
| 1922年 | 森興業株式会社を設立 |
| 1923年 | 高瀬川発電所建設部長となる |
| 1926年 | 日本沃度株式会社を設立 |
| 1927年 | 専務取締役に就任、阿賀野川鹿瀬発電所の建設にあたる |
| 1928年 | 東信電気と東京電燈の共同出資で昭和肥料株式会社を設立、専務取締役に就任 |
| 1931年3月29日 | 初の国産硫安の製造に成功 |
| 1933年3月 | 朝鮮半島南端の声山を買収、横浜・大町に工場を着工 |
| 1934年1月12日 | 初の国産アルミニウムが生産される |
| 1934年1月 | 昭和鉱業株式会社を設立、ニッケルの国産化に乗り出す |
| 1939年 | 日本電気工業と昭和肥料を合併させ昭和電工株式会社を設立、社長に就任 |
| 1941年3月1日 | 死去(56歳没) |
甲木 — 大木のような存在。まっすぐで正直、成長を求めるリーダー気質。向上心が強く、曲がったことが嫌い。
| 年柱 | 月柱 | 日柱 | |
|---|---|---|---|
| 天干 | 甲 | 甲 | 甲 |
| 地支 | 申 | 戌 | 辰 |
| 通変星 | 比肩 | 比肩 | (日主) |
| 十二運 | 絶 | 養 | 衰 |
自分の力で道を切り開く。独立心が強く、マイペース。
ここから先は四柱推命による解釈です。史実ではなく、命式の読み方の一例として書いています。
森矗昶の日主は甲木(きのえ)。四柱推命で日主とは生まれた日の天干を指し、その人の本来の性質を表すとされる。甲木は大木にたとえられる干で、まっすぐに伸びようとする向上心と、曲がったことを嫌う正直さを持つリーダー気質とされる。この命式は身強、つまり日主の力が強い型である。
矗昶は少年時代から父のかじめ焼き事業を手伝い、実学で知識と技術を体得し、自らの嗅覚で化学工業の道を切り開いた叩き上げの実業家だった。大木のようにまっすぐ伸びようとする甲木の性質と、自ら先頭に立って千曲川発電所や高瀬川発電所の難工事にあたった歩みは、命式の面から見れば重なりが感じられる読み方ができる。
年柱と月柱はいずれも通変星が比肩で、自分の力で道を切り開く自立・独立の星とされる。総房水産をはじめ、森興業、日本沃度と、矗昶が次々と自ら会社を興し、昭和肥料など既存の枠組みを活かした会社の経営にも深く関わっていった経営の軌跡は、命式ではこの比肩の並びに重ねて読むことができる。ただし、これは命式から見た解釈であり、矗昶自身が命式に基づいて事業を選んだわけではない。
身強で比肩が並ぶ命式は、他者に頼らず自ら道を作る力が強いとされる一方、周囲との協調が課題になりやすいとも読まれる。矗昶が硫安やアルミニウムの国産化という前例のない事業に次々と挑んだ姿は、この強い自力の型に沿っていると見る読み方もできる。
森矗昶は、千葉県のヨード(沃度)業から身を起こし、水力発電、化学肥料、アルミニウムなど幅広い分野で事業を興した実業家です。森コンツェルンと呼ばれる企業集団を築き、昭和電工の設立者としても知られます。衆議院議員も3期務めました。
生年月日は1884年10月21日です。
日主は甲・木・陽です。甲木 — 大木のような存在。まっすぐで正直、成長を求めるリーダー気質。向上心が強く、曲がったことが嫌い。
誕生日は10月21日です。同じ誕生日の運勢は /birthday/10-21 で確認できます。
電源開発を進めた結果、東信電気の発電量に余剰が生じており、1トンの生産に多量の電力を要するアルミニウムの国産化は、電力の消化と輸入品の国産化という矗昶の2つの課題に合う事業だったためです。1934年1月12日、初の国産アルミニウムの生産に成功しました。
森コンツェルンは戦後の財閥解体によって解散しました。ただし系列企業のうち、昭和電工や日本冶金工業などは存続しています。
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